紀元前220年、天下を統一した秦始皇帝は、より早い時代に造られていた軍事的防御施設を一つに繋げ、防御システムとしての長城を整備し、北方からの侵略に対抗しました。
また、それは明代にまで、その時々に応じて修築増築され続け、現在の姿になりました。長城の文化芸術の価値はその歴史と戦略上の重要性にあり、河北、北京、内蒙古、山西、陜西、寧夏、甘粛にまたがる全長約8851kmの世界で最も長い防御施設です。また外敵防御以外にも、通信と行商人の往来保護において重大な役割を果たしました。(2012年中国国家文物局により、総延長が2万1196.18キロメートルにのぼると発表されています。)
土、れんが、石を主な建築材料とし、防御の主体である城壁は地形を利用して山と平原の険しい場所に造られました。一定間隔ごとに情報伝達のための烽火台が建てられ、昼間は煙を上げ、夜間は火を灯しました。また長城沿線の重要な駐屯拠点として、密閉性のある砦と城壁を備えた関所を形成しました。現在観光地となっているのは関所を中心とした部分で、山海関、八達嶺、慕田峪、司馬台、嘉峪関などが有名です。そのうち八達嶺は明代に形成された代表的なもので、道が四方八方に通じる要衝の意味でその名がつけられました。最西端の嘉峪関は「天下の険しい関所」と称され、堅固な当時の姿を今に留めています。
中国では古来より「長城に登らざるは好漢(おとこ)に非ず」という言葉があり、長城は中華民族の精神力のシンボルになっています