主に吉林省通化集安市と遼寧省本渓市桓仁県に分布しています。高句麗は前漢(紀元前206-25年)から隋、唐(581-907年)にかけて、中国北東部に現れた多大な影響力を持った辺境民族で、その活動地域には五女山城、国内城、丸都山城など40を越える多くの遺跡が残されています。そのうち14の古墳が王陵で、残りの26の古墳が貴族の墓でこれらは高句麗文化に属しています。
「五女山城」は高句麗王朝の最初の都で、広大な規模と整ったシステムを有していました。城内の多くの場所には、高句麗初期の貴重な生活構造物や、防衛関連遺跡が分布しています。
「国内城」、「丸都山城」は高句麗王朝早期~中期(1-5世紀)に最も長期間栄えた都である。国内城の残存している城壁は、今なお頑丈で荘厳な美しさも失っていません。丸都山城は山の形状に合わせて建造されており、自然の風景と人類の思想が一体となっています。丸都山城にもかつては高句麗の都が置かれ、現在でも大規模な宮殿や37の古墳など多くの歴史的遺構が残っています。一部の古墳には、上方の石や地面の基礎を支えるための梁のない丸天井があります。
国内城と丸都山城の城外には洞溝古墳群があります。古墳群は武士墓地、太王陵が代表的で、十数個の大規模な高句麗王陵や壁画が書かれた大量の王室貴族の墓が現存しています。群人墓地はピラミッド型で、正方形の雛壇状の石室を有し、石で建造された高句麗王朝晩期の典型とされます。太王陵は、高句麗王朝の第19代の王、好太王の墓であり、規模も大きく、修復も行き届いています。その東側には好太王碑があり、漢字で碑文が刻まれています。現在まで残っている高句麗王朝の文献資料の中では、一番長いものであります。これらの史跡は、高句麗王朝の他に代え難い歴史的物証であり、貴重な歴史文化価値を有するものとされます。